《平家物語》中“無常”觀念的運(yùn)用(本科),日語論文_第1頁
《平家物語》中“無常”觀念的運(yùn)用(本科),日語論文_第2頁
《平家物語》中“無常”觀念的運(yùn)用(本科),日語論文_第3頁
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文檔簡介

(平家物語)中“無常〞觀念的運(yùn)用〔本科〕,日語論文(平家物語〕成文于日本鐮倉時(shí)代,描寫了平氏一家由榮華走向衰敗的歷史.書中以保元﹑平治之亂中獲勝的平家和戰(zhàn)敗的源家之間的比照,以及源平兩家爭戰(zhàn)后對(duì)平家的追討經(jīng)過為中心,生動(dòng)地再現(xiàn)了當(dāng)時(shí)處在社會(huì)變革中逐步衰敗的平安貴族與開場登上歷史舞臺(tái)的武士階級(jí)的社會(huì)狀況.本研究,基于屢次通讀這部優(yōu)秀的戰(zhàn)記物語,在深入理解作品描繪的日本中世宗教狀況以及人們的宗教理念的基礎(chǔ)上,對(duì)無常的觀念怎樣貫穿作品始終,為何能夠在人們心中打下深深的烙印等眾多問題進(jìn)行了討論.本文關(guān)鍵詞語:平家物語;fo教;神道;無常要旨『平家物語』は鎌倉時(shí)代に成立した、平家一族の栄華と衰敗を描いた歴史物語である.保元の亂?平治の亂に勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、衰敗し始めた平安貴族たちと新たに臺(tái)頭した武士たちの織りなす人間模様を見事にかきだしている.本研究では、この最高の軍記物語と呼ばれる物語に基づき、中に描かれた日本中世における宗教の狀況やそれに対する人々の観念を解読したうえ、なぜ「無常」という感じがいつも現(xiàn)れ、また人々の心に生じたのかという問題を辿り、検討してみたいのである.キーワード:平家物語;仏教;神道;無常第1章序論紀(jì)元3世紀(jì)ぐらいには、すでに日本列島と中國大陸の溝通があった.大國文化に対する憧れを抱えて、中國への留學(xué)生が派遣された.遣隋使、遣唐使など、時(shí)代によってさまざまな呼び名があるけれども、彼らの背負(fù)った責(zé)任や志が変わることはなかった.律法、制度の導(dǎo)入につれ、東南アジアに盛んでいた仏教がますます矚目された.仏教の伝入がもっと前のことであったが、最初はただ貴族たちだけの信仰となっていた.最澄、空海などの留學(xué)僧のおかげで、仏教が咲き夸る花のようにだんだん日本各地に、上から下まで広がっていく.しかし、たとえ仏教の世と呼ばれる平安時(shí)代派も、いよいよその時(shí)代を迎えようとした.時(shí)は紀(jì)元12世紀(jì)半ば、平家一族の盛衰史を生き生きと描いた『平家物語』における時(shí)代である.様々な人物を刻んだこの物語が、壯大なる戦爭の場面を見せてくれる.『平家物語』のシンボルとして、無常観がよく知られている.本論文はその「無?!工谓庹iを検討しようと思って、三つの部分になっている.第2章において、まずは物語の紹介や粗筋などを見てみた.第3章において、前回に提出した問題に応じ日本化した仏教について説明した.第4章において、「無常観」の源について探究してみて、また『平家物語』における様々な人物の例を分析した.以上の研究を通して、『平家物語』とその中に溢れる無常観に対する認(rèn)識(shí)を、もっと深めることができよう.第2章『平家物語』について2.1物語の成立平清盛を中心とする平家一門の興亡を描いた歴史物語で、「平家の物語」として「平家物語」とよばれたが、古くは「治承物語」の名で知られ、3巻ないし6巻ほどの規(guī)模であったと揣測されている.それがしだいに増補(bǔ)されて、13世紀(jì)中ごろに現(xiàn)存の12巻の形に整えられたものと思われる.作者については、多くの書物にさまざまな伝えがあげられているが、兼好法師の『徒然草』によると、13世紀(jì)の初頭の後鳥羽院のころに、延暦寺の座主慈鎮(zhèn)和尚のもとに扶持されていた學(xué)才ある遁世者の信濃前司行長と、東國出身で蕓能に堪能な盲人生仏なる者が協(xié)力しあってつくったとしている.後鳥羽院のころといえば、平家一門が壇の浦で滅亡した1185年から數(shù)十年のちということになるが、そのころにはこの書の原型がほぼ形づくられていたとみることができる.この『徒然草』の記事は、たとえば山門のことや九郎義経のことを詳しく記している半面、蒲冠者范頼のことは情報(bào)に乏しくほとんど觸れていないとしているところなど、現(xiàn)存する『平家物語』の內(nèi)容と符合するところがあり、生仏という盲目の蕓能者を介しての語りとの結(jié)び付きなど、この書の成り立ちについて示唆するところがすこぶる多い.ことに矚目されるのは、仏教界の中心人物である慈円のもとで、公家出身の行長と東國の武士社會(huì)とのかかわりの深い生仏が提攜して事にあたったとしていることで、そこに他の古典作品とは異なる本書の成り立ちの復(fù)雑さと多様さが示されているといってよい.2.2物語の粗筋平安末期の日本が、まさに大きな変革や騒亂に囲まれていた.仏に仕えるため出家したがまだ政を握っている法皇と、父親に逆らうことのできない天皇、優(yōu)雅に暮らしていた貴族と政権を把握し始める武家、また兵を所有する各地の領(lǐng)主と領(lǐng)地の爭いで離散になった庶民たち.さまざまな原因でこのような亂世を筑いたのである.『平家物語』は、平忠盛の始めて昇殿を許された天昇元年から、建禮門院お往生の建久二年まで、約六十年にわたる平家の盛衰をその內(nèi)容としたもので、史実のみによらず、想像のみによらず、史実と想像とを交わして、史書と物語との中間をいったものである.この物語の主人公の平清盛は、その時(shí)代のおかげで出世した.安蕓守からわずか十?dāng)?shù)年に、保元の亂や平治の亂を抑える手柄でついに太政大臣までにつき、そのため一族も極の栄譽(yù)を手に入れた.公卿に擔(dān)當(dāng)する者が十六人、殿上人が三十人余り、日本全土六十六國の中で平家の所有する領(lǐng)地が三十か所くらいでもあった.まさに真っ盛りといえるであろう.一方、特権を代々受け継ぐ貴族制度が崩れつづあり、私有荘園と武裝を持つ地方領(lǐng)主が舞臺(tái)に上がってきた.『平家物語』いおける人物中、最も多いのはさすがにこれらの武人である.出征途中、竹生島に管弦する、呑気な経正が、よく書かれ散るのは風(fēng)雅のためで、戦亂の間に、能登殿が大いにもてるのは、勇武のためである.この両者を重ねたものは、まさに時(shí)代の寵児で、瀬政や忠盛が特に光って見えるのはそのためである.一方、武家を代表する平家一族がその時(shí)代に活潑踴躍できるのも、各地の大名が支えてあげるために違いない.しかし、政権を握った平家は自らの階級(jí)の利益に逆らい、貴族のような生活を極めた.また京で二三百余りの少年を選って、かぶろのように髪を切り、一旦平家の御事悪しざまに申す者があれば、すぐに家に亂入し、私財(cái)雑具を追捕し、その人を六波羅殿へ捕まえ、このように天下を好きに扱うにした.後に源氏に負(fù)けたのも、誠に「盛者必衰」という言葉に當(dāng)たったのであろう.『平家物語』はこの両大武家の政権爭いを巡り、様々な人物像や社會(huì)萬象を生き生きと刻み、その同時(shí)に中國の歴史典故や詩歌などもよく出てくる.儒教の道徳観や仏教の宿命論が全書に貫き、平安時(shí)期武士階級(jí)の精神狀況も見事に描寫した.しかし常に我々の目に立ち頭に浮かべることは、やはりあの時(shí)代の仏教の実態(tài)であろう.太政大臣平清盛にしても下級(jí)武士たちにしても、彼らは自分の運(yùn)命をすべて仏に預(yù)けるような気が強(qiáng)く感じられる.一の谷の戦いで敗退し、死ぬ前にも西に向かい「光明遍照十方世界、念仏衆(zhòng)生摂取不舍」と十念する薩摩守忠度や、焔に燃えられるように死去した入道相國.これらの描寫は、仏教に対する信仰がいかに強(qiáng)かったのを表す他ならないのである.2.3物語における仏教思想さまざまな変革に迫られていた平安朝の日本は、大陸文化を積極的に吸収する一方、仏教も盛り人々の心に根強(qiáng)く留った.監(jiān)真の東渡、唐招提寺の建設(shè)でますます興隆になりつつあった.中世の日本人は仏のことに莫大な関心を持ち、生活の面々にも影響された.平氏の創(chuàng)始者の平忠盛は、鳥羽上皇のため得長壽寺を建てから登殿ができ、一族繁栄の土臺(tái)を筑いたのである.各大寺の座主は必ず親王とか地位の高い公卿とかで擔(dān)當(dāng)され、仏教の重要さが言うまでもないことである.貴族にも関わらず、庶民たちの敬う心も明らかに表わされていた.歌女の妓王は入道殿に舍て去られた後、世間に絶望し、ついに出家した.一時(shí)に栄華になったfoでも、「いづれか秋にあわで果っべき」という嘆きさえ出て、出家になったのである.現(xiàn)世が不順ならば、來世を求めた方が良い.妓王たちが出家し極楽を求めた果ては、後に後白河法皇の長講堂の過去帳にも妓王、妓女、刀自、foなどが尊霊と記録されていた.彼らの宿愿が葉えたとしても、かなり憐れむことであろう.このように仏法興隆から二三百年の間に、仏教がだんだん本土化また日本化になり、自ら獨(dú)特の精神教義が出てきたのである.しかし、時(shí)は仏法衰微の時(shí)期になった.武士豪族の爭いで戦爭を招き、天下が不安になり続いた.源氏を潰し都から追い払ってから、平氏はまつり事を獨(dú)斷していた.失意した貴族や武士は相次ぎに出家し、來世の福祉を祈ることが多かった.動(dòng)揺した態(tài)勢が人間を恐慌させ、?諸行無常?の観念もいつの間に人々の心から生じ蔓延り、仏教はこのように俗世間を離れる最もいい口実となった.「只園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を顕す.驕れるものの久しからず、唯春の夜の夢のごとし.たけき者も遂には滅びぬ.ひとえに風(fēng)の前の塵に同じ」.この哀唱をはじめとして、平家十二巻を貫くものは、無常観であり無常の哀感である.いわゆる「無?!埂ⅳ膜猡陦浠我猡虮恧?、世間の物がいつも無限の変化にあったという仏教の基本的認(rèn)識(shí)である.「無常」の生まれは、日本列島獨(dú)特の自然環(huán)境にも深くかかわったと思う.地震、火山、津波、日本民族は昔からこのような災(zāi)禍で生きていた.人間の死去、建物の壊滅、これらの全ては人の精神狀況に影響し、存在することがいかに実在的でなく、幻の感覚までも出てきたのでしょう.しかし、広く伝わる仏教こそ、その無常の現(xiàn)れの重要な要素だと思う.なぜ大陸から伝來した仏教が日本國でこんな差異が出たのか.またその異化された仏教に対する認(rèn)識(shí)は、「無?!工驑?gòu)成してきたのでしょか.その両者の間に、きっと何かのかかわりがあるのである.ならば、宗教の面から、その「無?!工纹鹪搐蜣{りしよう.第3章仏教の日本化3.1神に恵まれた國長く狹くて、また海に包まれる土地、それが日本列島である.島國として、自然環(huán)境がきびしいどころか、時(shí)々地震や火山や津波の災(zāi)禍も起こり、構(gòu)造大変であった.こんな狀況で生きてきた日本民族は、言うまでもなく大自然に尊敬かつ怯える感じが生じられなくてはいられなかった.農(nóng)業(yè)生産の豊作や一族の繁栄安全など、これらの不安寧な要素をすべて「あるもの」の意志とされば、やがて「神」という言葉が出てきたのである.祖先の崇拝や形のない霊を祭る中で、自然の大いなる力に恵まれているという気持ちも抱えられてきた.『古事記』の編纂により、始めて文の形で日本國と日本人の來歷の伝説などを述べ、神の子孫としての夸りが明らかである.祖先や自然神を尊崇しながら構(gòu)成したものは、民族宗教であった.それは他の民族の宗教と同じく、最初は単に村全體の繁栄や安全のため祈った行事であった.村人は神社を作り、そこで祭りを行うことにした.古墳時(shí)代後期になると、農(nóng)業(yè)生産の進(jìn)みにより社會(huì)の変化が大きかった.家族、氏族などが生まれ、それに対して相応の氏族神も誕生したのである.にもかかわらず、信仰される神が変わっても、その祈りの本質(zhì)は変わらなかった.こういう時(shí)期の民族信仰は、まだ個(gè)人的な「福を招き、禍を消す」という念愿を?qū)g現(xiàn)するために存在していて、教義や理念などは全くなかった.無知な人々は厳しい生存狀況で生きられるため、常に神に恵まれるというような感じが生じた方が、心の安らかさができるでしょう.これは最初の「神道」というものである.やがて日本社會(huì)の発展に伴い、國家の形で政を処理するには、もっと優(yōu)れた制度が望ましかった.海の向こう、大陸の中國から國政を?qū)Wぶ同時(shí)に接觸した新たな宗教――仏教も日本の舞臺(tái)に上げたのである.3.2藩神到來紀(jì)元522年百済明王は使節(jié)を派遣、日本に仏像を獻(xiàn)じた.よって、仏教が朝鮮半島から正式的日本へと伝わってきた.『日本書紀(jì)』によると、その獻(xiàn)上した仏像を祭るかどうかについて、當(dāng)時(shí)の欽明天皇の大臣たちは激しい論爭に陥った.崇仏派の蘇我氏は「諸外國が尊敬する以上、わが日本國も例外なしに崇めるべし」と述べたけれども、一方排仏派の物部氏は「我が國が天照大御神に守られているながら、また蕃神などを崇拝することは、カミの怒りを招く恐れがある」と強(qiáng)く反発したのである.両大派閥の対立は五十年あまりという、長い時(shí)間に続いた.仏教の初登場が激しい反対の聲に遭遇したのは、上記の言うとおり本來民族宗教がすでに存在しているほか、當(dāng)時(shí)の政治體制にも深くかかわっていた.朝廷を左右した力は、豪族保守派を代表する物部氏や、新興貴族を代表する蘇我氏であった.前からも帰化人や大陸文化に接觸し先進(jìn)文化に影響された蘇我氏は、仏教を引き入れる時(shí)機(jī)で、物部氏との闘爭に劣勢に処する一族の権力を固めようとした.しかし、天皇伝統(tǒng)権威や民族宗教を支柱とした物部氏は、?外來神?の仏の伝來に対しては必ず反対の聲を響かせるしかなかった.それにもかかわらず、歴史の進(jìn)むプロセスはいつも止まることがないのである.どんどん政を獨(dú)斷してきた物部氏に、やがて皇室からの不満が出てきた.圣徳太子と手を組んだ蘇我氏は物部氏を潰してから、新たな宗教――仏教がようやく日本全土に伝わることができた.3.3奈良時(shí)代の仏教すでに天下へと仏教が広げられ、ならば萬民に信仰させ、國の安樂のため仏法を発展向上させるべきである.しかし、事実はそうではなった.國家を守護(hù)し天皇制を固められると宣伝された仏教が、最初からも政治宗教となった.朝廷に守られ、お寺などがよく町の周辺で建てられる故「都會(huì)仏教」とも呼ばれた.興隆期となった奈良時(shí)代の日本仏教は、インドと中國での伝統(tǒng)仏教と違い、基本的な戒律さえも離れ、僧侶は民間へ伝教するようなことをせず、単なる貴族たちに仕えるだけである.ついに國の政に手を出すこともあり、朝廷を左右する勢力となってきた.こういう時(shí)期の仏教は新たな事物として政権爭いに利用され、これも後に仏教の日本化の兆候となったわけである.しかし、寵愛を一身にしても、所詮?fù)鈦碜诮踏湔蔚谰撙扦ⅳ?律令國家の確立に伴い、天皇の力がますます高き、蘇我氏一族を始末してからやがて君臨するようになった.伝統(tǒng)権威を代表する神道も言うまでもなく新たな高位に置かれた.大化の革新に制定した「大寶律令」によると、神の祭りなどを主管する官吏は天皇から直々の任命、太政大臣同級(jí)の者であるが、仏教諸事を処理する機(jī)構(gòu)はただただ治部省所轄の玄蕃寮であった.神高仏低の狀態(tài)における仏教がよい発展と権力の拡大を求めるには、やむを得ず神道にしたがうことにした.その表現(xiàn)の一つが神社で経文の朗読を許し、いわゆる「神前念仏」である.初期仏教がつよい政治性を持っているのを除き、民間へ広がることのできないもう一つの原因は、人々固有の観念そのものである.宗教というと、それが現(xiàn)世のことを第一に、生活の安寧さや幸せさを祈るはずだと思われた.ですから仏教の來世主義、死後の世界に憧れる考えが一時(shí)に納得されるわけはなかった.一方、元來ただ神社に參ることで宿愿をかなえることが可能であるが、もし仏を信じるならば、山ほどの戒律や決まりを守らなければならないという恐れもあり、あまりにも実用ではなかった.これはさまざま不確定な要素に囲まれ、尊崇や冷遇の立場にあった前途不明の奈良時(shí)代仏教である.第4章所謂「無常観」4.1無常観の起源「神」と「仏」の関系転換がただ二三百年かかったといっても、その經(jīng)過はかなり復(fù)雑とは言えよう.いつも原始神道の感化で生きてきた庶民たちにとって、きゅうに別の「神」に信じさせるのは考えられないと思う.固有的な考えを破りにくいので、こういう時(shí)に観念転化は必要とする.『平家物語』を読むと、「熊野権現(xiàn)」、「八幡pu薩」などの言葉がよく見られる.特に比叡山の「山王権現(xiàn)」がなかなか権威をおち、山門衆(zhòng)はいつも神與振の形で朝廷の命令に逆らうことがあり、朝廷を従わせる.日本の諸神にpu薩號(hào)を與え、pu薩の神力をつける新たな有力神を作ったわけである.これが本地垂跡である.「本地」即ち物の源や本來面目、ここは仏の本體を表す.「垂跡」は極楽の仏が萬民を救うためあるものを借り日本で現(xiàn)れることを指す.そしてその借りものが日本の元來に存在している「神」である.日本の神々は、本々仏の恩恵を人たちに賜るため、現(xiàn)れる仏の「分身」である.本地垂跡の形で、仏教と神道の沖突を最大限度に下げることができた.人々の固有の信仰を潰せずに仏教の信仰へと導(dǎo)き、両者に対する信仰を折衷し一つの信仰體系として再構(gòu)成することである.亂世に生み出した「無?!埂柦踏槌訾皮客枷?、これらを交わして生まれるものは、「無常観」だと思う.4.2『平家物語』における無常観前にも「無?!工我馕钉蚪忉嫟筏郡?、それはかなり簡単で、なかなか理解できないであろう.実は、論理的なことをほうっておいて無常観つまり、何時(shí)も変化している現(xiàn)世に対して厭きを感じると言えよう.この厭きを積んだうえ、不満や辛さも出てくる.一旦そうなると、來世や未知の極楽世界に憧れることもやむを得ずに生じる.ここの「無常」は単なる亂世に対する動(dòng)揺不安に気になり、世の中のことに信念を失ったばかりではない.中國でもどの國でも、昔には必ずある揺れる時(shí)期があるに違いない.その時(shí)の人間は、あくまで厭世という感情が出てくるだけである.しかし日本中世における「無?!工?、それなりの特質(zhì)があると思う.その表現(xiàn)の詳細(xì)化は出家、隠遁ということである.前回の述べたように、奈良時(shí)代から神道の陰に置かれた仏教であるが、教理と精神実質(zhì)のある宗教として決してそのままではいられなかった.神道が仏教の戒律などをかり、自らを充実していこうとして、神の御前の念仏を許したわけである.しかし、実は仏教こそこの絶好の時(shí)機(jī)で宣伝されることができた.神仏が同所で、神即ち仏、仏つまり神というような錯(cuò)覚は民衆(zhòng)の心に留まり、個(gè)人の利益を求めるために祈るなら、どんな神像に頼んでもよいではないかと思われた.この溶け合う中で、一番影響されたのが人々の考え、特に死生観そのものである.これらの代表的な例として、『平家物語』に登場した熊谷次郎直実をあげることができよう.無骨の武士である直実は、功名心から敵の頭を切り、武勲をあげることに全精神を傾け罪悪感とは無縁なや武士的な人生を送っていた.しかし、「敦盛最後」にあるように、一の谷で、直実は彼の子供の小次郎と同年と思われる敦盛の首を、泣く泣くに切ってしまう羽目になる.その後、直実の人生に影を落としたものは、殺生を犯した者の罪業(yè)観と罪障観であった.それが彼の出家した原因とも考えられている.また、『平家物語』巻十の「戒文」を參考し、平重衡と法然上人の交渉から、重衡の來世の死生観についてみてみよう.三位中將重衡は南都焼討で悪名高いが、治承四年十二月に平家軍は南都の敵を攻撃している最中に、図らずに東大寺や興福寺などの諸事を焼いてしまった.その後、重衡は墨俁川の戦いや水島の戦いで勝ったが、一の谷の戦いで捕まえられ、鎌倉へ護(hù)送されてしまう.彼は鎌倉へ護(hù)送の前には、法然を招いて出家しようと思った.南都の諸寺を焼き払ってしまった重衡は、罪の意識(shí)を感じ、往生への道が完全に閉ざされてしまったことを自覚した.しかしながら、どうしてもその罪障観から救済されたく、善知識(shí)である法然上人に少しの望みを托したわけである.意外なのは、ただの「一聲稱念罪皆除」と念すれば、何の罪でも消えていくと重衡に明快に答え、浄土宗の基本理念を表したのである.『平家物語』では、この世を無意味だとする精神が、往々にしてこの世を離れがたいものとする精神に圧倒されているのを次々の敘述の中に見ることができると思う.小松殿の息子?維盛が何とかして山伝いに京都へ上がって戀しい妻子にもう一度會(huì)いたいが、生捕りになった重衡のような目には會(huì)いたくない、いっそここで出家して、火の中へでも水の底へでも入りたいと思う、という意味のことを言うと、それに対して高野圣滝口入道が「夢幻の世の中は、とてもかくても候ひなん.長き世の闇こそ心受かるべう候へ.」と、言い聞かせるところがある.そこでは、この世を「夢幻の世の中」などと言って無意味なものとする精神が、優(yōu)位を占めている.維盛の妻子にもう一度會(huì)いたいという気持ちは、それを持って現(xiàn)世的なものへのいたずらな固執(zhí)だとする仏教思想によって、抑えられている.そのあたりは一応「斷ち切る」物語の様相を見せている.これですこし分かるようになるであろう.中世、平安時(shí)代になると、仏教がようやく「神高仏低」の狀態(tài)から出て、逆に「神低仏高」のように転換された.宗教の重心が変え、それに導(dǎo)き日本にも適切な理論が望ましかった.一番代表的なのが法然の輝いた浄土宗である.「稱名」念仏という専修念仏を説いて、仏教の広がりに極大の役割を果たした.往生することがいかに簡単なことなので、信ずる者も多くなり、尊君思想をいつも心の中に置き死を恐れることのない武士たちさえも出家などを行い、來世を求める.往生を念じれば現(xiàn)世に対する不信がもっと深く、極楽を望めば無常についての信念がさらに強(qiáng)く.わずか二三百年で、まるで人々の考えが全く違い、仏教の思想が完全に人たちの頭に染み込んでいたというような気がする.しかし、神道の働きをなくしては考えられなく、むしろ神道の土臺(tái)があるこそ、こんなに速やかな達(dá)成ができたのである.結(jié)論『平家物語』

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