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文檔簡介

明けましておめでとう!新年快樂!今年もよろしくねこちらこそ!この間、雪祭り、行ってきたんだ札幌の?そう。三好さんたちと行ったんだけど、超きれいだった!いいなぁでも、寒かった~長春ほどじゃないけどスキー、トライした?うん。でも、滑るそばから大転倒?。撤证茄─蓼撙欷坤枰姢郡盲郡胜⑺饯猓痹陇衰膝毳豫螭诵肖盲郡袱悚胜鏊懒耍·坤?、ハルピンは寒いよって言ったじゃないでも、人気のスポットだし、ほんとにきれいで、もう感激!そうなんだあれ?やっぱり行ったことあるんじゃないさすが、長春出身!え?ないよ。ほとんど地元なのに?うんそうそう、鈴木さんが氷のパンダに激突した!パンダ、かわいそう…私もハデに転んじゃって。それなのに美咲ときたら、心配するのは鈴木さんのことばっかりえっ、そうなの最近ね、あの二人、すっごく仲良しなのよへえご両親から春節(jié)のカードをいただいたよ高橋さんのも來たよすごくセンスよくて感動!でしょそうだ、空手部の合宿、どこになった?沖縄!沖縄?那覇國際大と練習試合もするんだ。マイクなんか毎日猛練習してるよ王さんも試合に出るの?さあ、どうでしょう…あ、ポップカルチャーの専門家に、沖縄は最高かもなんで?行けば分かるよ!教えて~沖縄って夜にはよく誰かの家に集まって、歌ったり踴ったりするんだっておもしろうそう!若い人も?そう!こういう習慣から沖縄のポップカルチャーが生まれたんじゃないかなああ、向こうの學生と、コンパ、することになってた!チャーンス!なんか、すっごく楽しみになってきたパフォーマンス、両方とも頑張ってね両方?そう、試合も、歌や踴りも無理だよ秧歌じゃないんだからあ、もう行かなくちゃ。ごめん、またね!うん、バイバイ?。ˉ欹弗氓去`ドは本當に必要か(會社員23歳)

クレジットカードは、今や私たちの生活にすっかり定著しています。一人で5枚も6枚もカードを持っている人も珍しくないようです。カードがあれば、現(xiàn)金を持ち歩かなくても、必要な時に必要な物を簡単に購入することができます。また、デパートなどのクレジットカードでは、購入の額に応じてたまるポイントで商品券がもらえたり、割引料金で買い物ができたりするというメリットもあります。しかし、便利である反面、それほど必要のない物や高額な物を値段を意識しないで買ってしまうということが起こりがちです。実は、私は、家族や同僚からは時代遅れと言われていますが、カードを持たない、つまり現(xiàn)金主義者なのです。カードを使うと借金をして買ったような気になり、支払いが済むまではなんだか落ち著かない気になるのです?,F(xiàn)に多くなりすぎたカードの支払いのために、サラ金などの金融業(yè)から借金をし、さらにその借金のために犯罪に走る人もあることが報道されています。カードをめぐるトラブルは今後も絶えないでしょう。クレジットカードが使えなくなるとしたら、不便を感じる人は多いでしょう。しかし、カード利用者は、借金をしていることだという自覚を持ちつつ、カードを利用すべきではないかと思います。教室でもっと発言を(大學生19歳)大學に入って、1年が経った。今日も教室は後ろの方から埋まっていく。この1年を振り返ってみると、いつもそうだった。それには二つの大きな理由があるのではないだろうか。まず、大學の教師が、學生に発言を求めることがあまりにも少ないということである。そして、學生の方も、教師に指名されるのを恐れているのか、目立たない場所にいたいという気持ちがあるのか、いつも後ろの方の席にかたまりがちであることだ。私は、父の仕事の関係で、高校の2年間を海外で過ごした。そこでは一クラスの生徒數(shù)は少なく、授業(yè)はあくまで生徒中心だった。私たち生徒は、常に授業(yè)に真剣に取り組まねばならず、教室では自分の考えや意見をためらわずに述べていた。ところが、日本の高校では教師が一人で授業(yè)を進めている。例えば、英語の授業(yè)では教師が教科書を読み、日本語に訳して重要な表現(xiàn)を説明するだけで終わってしまう。英語の授業(yè)なのに、生徒は一言も英語を話すことがない。さすがに大學ではこんな授業(yè)は見られないかと思ったら、信じがたいに大學も高校の延長にすぎなかった。洗濯が終わると食事の買い物に行く。買い物とはいっても冷蔵庫がないから(それにしても貧乏だなあ)余分なものは買えない。その日使うものだけを余りの出ないように買うわけだ。だからその日の夕食が大根の味噌汁と大根の煮物としらすおろしなんていう狀況もかなりの頻度で現(xiàn)出し得るわけである。こういうのを「シンプル?ライフ」と呼ばずしていったい何と呼べばいいのだろう?買い物のついでに「國分寺書店」に寄って本を売ったり、安い古本を買ったりした。それから家にかえって簡単に晝食をとり、アイロンをかけ、ざっと掃除をし(僕は掃除が苦手なのであまり丁寧にをやらない)、夕方まで縁側に座って貓と遊んだり本を読んだりしてのんびりと過ごす。なにしろ暇なものだから、僕はこの時期だけで、「講談社?少年少女世界名作全集」を読破したし、『細雪』なんて三回も読んだ。あたりが暗くなってくるとそろそろ夕食の仕度である。米を洗って炊き、味噌汁を作り、煮物を作り、魚を焼く用意をして女房が仕事から帰ってくるのを待つ。帰ってくるのはだいたい7時前だが、時々殘業(yè)なんかで遅くなることもある。でも――今さらことわるまでもないだろうが――家には電話がないので、連絡はつかない。だから僕は魚を網の上にのせたまま、女房の帰りを、「……」という感じでじっと待っているわけである。この、「……」というのはたぶん日常的に経験したことのない方には分からないだろうけど、かなり微妙な種類の感興である?!附袢者Wくなりそうだから先に食っちゃおうかな」とも思うのだが、「まあせっかくだからもう少し待ってみようか」とも思うし、「でも腹減ったね」とも思う。こういういろんな思いが集約されて、「……」という沈黙になるのである。だから、「あ、ごめん、食べてきちゃった」なんて言われるとやはり頭に來る。それからこれは奇妙といえば奇妙だし、奇妙じゃないといえばそれほど奇妙ではないのかもしれないけど、自分の作った料理をテーブルに並べる段になると僕はどうしてもうまくできなかったり型崩れしたほうを自分の皿に盛り分けてしまう。魚だと頭のほうを相手の皿にのせ、自分は尻尾のほうをとる。これはべつに自分を主夫として卑下しているわけではなく、ただ単に相手に少しでも喜んでもらいたいと思う料理人の習性であろうと僕は解釈している。こうしてみると世間一般で「主婦的」と考えられている屬性のうちの多くのものは決して「女性的」ということと同義ではないように僕には思える。つまり女の人が年をとる過程でごく自然に主婦的な屬性を身につけていくわけではなく、それはただ単に「主婦」という役割から生じている傾向?性向にすぎないのではないかということである。だから男が主婦の役割を引き受ければ、彼は當然のことながら多かれ少なかれ「主婦的」になっていくはずである。僕個人の経験からいうと、世の中の男性は一生のうちでせめて半年か一年くらい「主夫」をやってみるべきではないかという気がする。そして短時間なりとも主婦的な傾向を身につけ、主婦的な目で世界を見てみるべきではないかと思う。そうすれば現(xiàn)在社會でまかりとおっている通念の多くのものがいかに不確実な基盤の上に成立しているかというのがよく分かるはずである。僕もできることならもう一度のんびりと心ゆくまで主夫生活を送ってみたいと思うのだけど、女房がなかなか働きに出てくれないのでそうもいかず困っている。1週間って、あっという間だったなあ。ほんと。もう、體、ガタガタで歩こうにも歩けないよ。それにしても、王さんすごいよ。あの喜屋武さんを負かすなんて!いえいえ、あれはまぐれです。ダメモトで、ただ、がむしゃらにぶつかっていっただけで。喜屋武といっては「猿も木から落ちる」かな。喜屋武さん、腕のほうは大丈夫ですか。大丈夫、大丈夫!こんなの、日常茶飯事だから。王さん、次は負けないからね。ほんと、王君、初めてなのによく頑張った!じゃあ、はい、これ、ぐーっと。何ですか、これ。これはね、泡盛。沖縄に來たら、これを飲まずには帰れないよ。さあさあ、最後の日だから、思いっきり無禮講でいこう。そうですか、じゃあ…王君、かなりいける口だね。そりゃそうですよ。王さんは中國の超寒いところの出身ですから。マイクさん、比嘉先生は師範ですよ。そんなことしたら、いいんだよ。今日は無禮講なんだから。そうですか。それじゃあ、比嘉先生も、まあ一杯。これが沖縄の音楽か。あれ、この楽器、二胡に似てるなあ。あれは三線っていうんだ。みんなが踴っているの沖縄の伝統(tǒng)舞踴。さあさあ、みんな一緒に。僕はいいっすよ。いいから、いいから。さ、ほらほら。うーん、難しい!沖縄の音楽っていうと、知念奈美とか、SPEEDY、DASTEPみたいなJ-POPを思い浮べるけど。東京はそうだろうね。でもそれは最近のものだよ。うちなー文化ってのは、土著の文化に、戦前は中國とやまと、戦後はアメリカの文化が混ざってできたんだよ。だから、ふだんはジーンズはいてJ-POP聴いてる若者も、宴會ともなると、やっぱり、うちなんちゅの血が騒ぐのかな。みんなでこれを踴るんだよ。沖縄はクロスカルチャーなんですね。王君、なかなかすじがいいねえ。大したもんだよ。そうですか。僕のふるさとにも秧歌っていう踴りがあるから、東北人の血が騒いじゃうのかな。いやあ、うまい、うまい!あれ、大山さん、すっかり酔っ払っちゃったみたいだ。まったくもう、テーブルの下で寢ちゃってる。大山、おい、起きろ!こんなところで寢たら風邪引くぞ。もう飲めないよ。こりゃだめだ。やれやれ…。大山は酒はどうもだめだなあ。また寢ちゃった。もうちょっと寢かせておきましょうか。喜屋武さんもまだ飲んでるし、マイクさんも踴ってるし、無事に帰れるかなあ。比嘉先生、いろいろとありがとうございました。今度は東京でお待ちしています。次はまた勝たせてもらいますからね。じゃ、また。お元気で。喜屋武さん、お世話になりました。よかったら、また稽古を付けてください。王さん、今度は手加減しないから、覚悟しておいてくださいよ。それから、おいしい泡盛持って行きますからね。僕も中國のパイチュウ用意して待ってます。きっとですからね。じゃ、皆さん、気を付けて。あんしぇー、またやーさい!「人皆同じ」の思い込み「人間はどこに行ってもしょせん人間、同じなんだから、分かり合える」。このように考えることほど危険なことはない。なぜなら、実際は「人は皆違う」からであり、また「分かり合う」ためには、お互いに相當な努力が必要であるからだ。「違って當たり前」と考えていれば、異なる考え方や、常識、物事の進め方などに遭遇しても「ああ、そうか、違うんだ」と比較的冷靜に捉え「どうすればいいかな」と自分のとるべき行動について考えたり、また相手に自分の考えや、やり方の違いについて説明することも可能になる。ところが、一度「同じだ」という土臺の上に立って相手をみてしまえば、自分のものの見方を相手にあてはめることの間違いにまったく気づかないことになる。すなわち、「わがままだ」「非常識だ」「変な人だ」など、自分の視點で捉えた相手がすべてであり、相手からみた自分や、相手の視點について思いを駆せることの必要性など考えもしないということになってしまう。これは何も國や言語といった文化差についてのみ限った話ではない。親、子ども、夫と妻といった家族や、友人、戀人や職場の人々など自分の周りにいる近しい人々とのコミュニケーションにもあてはまる?!负韦扦长螭胜俗苑证韦长趣蚍证盲皮欷胜い螭馈埂袱胜螭?、無神経」など、相手の行動や言動を責めている自分に気づいたら、ふと一呼吸おいて冷靜に考えてみよう。「人皆同じシンドローム」に陥っていないかと?!搁g違い探し?」の傾向「人皆同じ」という思い込みの次に怖いのが、いわゆる「間違い探しゲーム」のように異文化の相手と対峙した場合、目に見える差異ばかり探そうとしたり、また一度大きな差異を見つけるとそれがすべてであるかのように相手が自分とは異なるという點ばかりに意識が集中してしまうことである。例えば、顔が真っ黒に塗って、目の上や唇を白くするといったいわゆる「ガングロ」化粧を施した女性がお隣に引越してきたとしよう。そんな時、女性の特異な外見だけが彼女のすべてを物語るかのように捉え、その上自分と非常に異なる人種だと決め付けて、個人としての彼女を知ろうともしないで「あまり関わらないでおきたい」などと思ってしまう人が多いのではないだろうか。同じことが実は異文化の相手とのコミュニケーションにもあてはまる。外見上の違いばかりに目を奪われたり、相手の意見や価値観の異なる部分ばかりに著目してしまうと、本當の相手がみえてこないばかりか、相手と自分との共通點にはまったく目がいかなくなる。かくして、相手をよく知ろうともしないで、「異文化の人だから、分からない」となってしまう。前頃の「『人皆同じ』の思い込み」とは逆説的だが、人間同士は共通點のほうが多いのが普通であり、また、お互いに個人として人間同士の付き合いに発展する場合、「共通點を探しあう」ことが肝要となる。異文化コミュニケーションが難しいのは、この「人皆同じ」という思い込みを排除しつつ「間違い探し」は慎むという離れ業(yè)のようなことをしなければならないからだともいえる。この2つのバランスをうまくとりながら、相手と人間関係を構築していくさまは、まるでサーフィンに乗って波乗りをしているようなものだといった研究者もいる。この「異文化コミュニケーション?サーフィン」の上達に、近道はない。実踐をどんどん積んで、ぜひ失敗から學んでもらいたいものだ。意味は言葉にあり?「言葉の意味は、言葉に付隨している。だから、言葉を使って相手に伝えれば、意味は確実に伝わるはず」。このように思ってはいないだろうか。実は、この考えは間違っている。本當は、「意味は人にあり」である。言葉というものは、それ自體に意味があるものではなく、極めて恣意的に音や記號をあてはめているだけであり、その上、人間がいろいろな意味を勝手に付加して使っているからさらに複雑である。例えば、「母」という言葉を例にとって考えてみましょう。多くの人はその言葉を聞いて自分の母をイメージするだろうし、そうなると、當然「母」という言葉に付隨しているニュアンスやイメージは人によってまったく異なることになる。同じ言葉を使っていてもこのように微妙なニュアンスとイメージが異なるのであるから、母語が異なっている場合、さらに話がややこしくなる。例えば、「良い生徒」「良い教師」「良い妻」をgoodstudent,goodteacher,goodwifeなどと訳したところで、その単語に付隨しているイメージや、期待される役割行動をすべて伝えるのは至難の技であろう。なぜから、何を持って「良い」というかはところ変わればもちろん変化するし、その上、「生徒」「教師」「妻」の役割さえ文化が異なると違っていることもありうるからだ。そんなふうに考えると「はっきり言ったから伝わったはず」と簡単には言えないことに気づいたのではないだろうか?!袱悉盲辍工味群悉涫埭比·攴饯丹ㄟ`うかもしれないのだから。皆さん、中國の長春市からいらっしゃった、王宇翔さんです。こんにちは。はじめまして。東西大學3年の王宇翔です。今日は皆さんとお話できるのを楽しみにしてまいりました。よろしくお願いします。じゃあ、これから生徒たちが質問をしますので、お答えいただけますか。はい。はい、質問がある人!はい!はい、じゃあ、水木君!王さんのお名前はどういう字を書くんですか。はい、中國語ではwangyuxiangと読みます。中國語って、発音、難しいね。日本に留學したいと思ったきっかけは何ですか。そうですね、もともと日本の文化が好きだったんですが、特に若者のポップカルチャーが、どのように作られるのかを知りたかったんです。王さんは例えばどんな歌手が好きなんですか。

ユミとか、ピースやハロー?ガールズもいいですよね。詳しい。ちょっとお聞きしてもいいですか。私たち、國語の時間に「故郷」を読んだんです?!腹枢_」ですか。ロンジンにして書ける作品だと思います。日本でも読まれているんですね。ロンジンは今でも中國人に愛されているんですよ。「故郷」は大好きですが、皆さんはどんな感想を持ちましたか。初めは子ども時代の話で楽しかったけど、難しいなと思いました。そうですか。印象的な場面はありましたか。主人公がルントーと遊ぶところです。あの場面ですか。王さんが読んで心に殘った日本の小説は、どんな作品ですか。そうですね、まず夏目漱石の「吾輩は貓である」ですね。それから芥川龍之介の「蜜柑」、川端康成の「伊豆の踴り子」もよかったです。皆さんは今までにどんな小説を読みましたか。宮沢賢治の「注文の多い料理店」や太宰治の「走れメロス」です。その「走れメロス」ってどんな小説ですか。この間ブックトークで4班が紹介してたね。じゃあ、4班の人、王さんに説明してくれますか。はい。まず登場人物は主人公のメロス、その親友のセリヌンティウス、それからシラクスの王です。妹の結婚式の準備でシラクスの町に來たメロスは、町があまりにもさびしいので、不審に思い、1人のおじいさんをつかまえて話を聞きました。そのおじいさんの話によると、シラクスの王は「人を信じることができない」と言って、自分の子どもや妹、皇后そして自分の家來と、大勢の人を次々に殺しているのでした。王の噂を聞いたメロスは激怒し、王を殺そうと城を乗り込みますが、逆につかまり、処刑されることになってしまいます。結婚式が間近の妹のことを思ったメロスは、3日後の日沒までに戻るから、村での結婚式に出席させてほしいと王と頼みます。そして身代わりに親友のセリヌンティウスを置いて、メロスは村へ急ぎました。妹の結婚式を済ませたメロスは、セリヌンティウスの待つ城へと急ぎますが、數(shù)々の苦難がメロスに襲ってきます。疲れ果てたメロスは一度は、親友を裏切ることも考えました。しかし、友情を貫くために、最後の力を振り絞って城に向かって走り続けました。日沒寸前に城に駆け込んだメロスは、セリヌンティウスと抱き合い、友情確かめ合います。この2人の友情を尊ぶ姿を見て、王は信じることの尊さを知り、改心した、という話です。なるほど。どうもありがとう。興味深い小説ですね。王さんがメロスだったら、どうしますか。そうですね、やっぱり戻るでしょうね。王さんは親友がいるんですね。女の人ですか??茖W者と頭寺田寅彥寺田寅彥の隨筆に「科學者と頭」というのがある??茖W者になるには、頭がよくなければならない。これは誰でも考え、描く科學者としての命題であろう。これに対し、寅彥は「科學者は頭が悪くなくてはいけない」と論じている。頭の悪い人は、よい人が考えて初めからだめと決まっているような試みを一生懸命やる。だめと分かるころには、たいていなんかだめでないものの糸口を取り上げている。回転が速く、理解力、記憶力、推理力の優(yōu)れた者が、頭がよいと言われるのだろう。このような能力のすべて優(yōu)れている者が必ずしも科學者として適しているとは言えないようだ。頭のよい者は最初から研究のような効率の悪い仕事には関わらないことが多い。ある資質が劣っていても、自然の不思議に感動し、自然に教えを乞う謙虛さを持ち、執(zhí)拗な努力をする者に自然は扉を開くだろう。現(xiàn)行の入學試験は、科學者を期待して選抜するには適していないように思う。こころ夏目漱石私の「こころ」を造ったのは、漱石であると私はためらわずに言う。小學校の時から判っても判らなくても、ただただ読み続けてきた。その結果、私の「こころ」は代助のこころであり、先生のこころであり、三四郎のこころであり、一郎や次郎のこころであり、宗助のこころであり、津田のこころとなった。こうした男たちのこころとして夏目漱石が描いたものを、自身の「こころ」の中を見つけ、確認するということが、漱石を読むことと同じになった。彼らが女を見る心が、私が女を見る心になった。かくして私にとって女とは、美彌子であり、直であり、お米であり、三千代であり、お延であることになった。誠実に生きようとする意志だけでは、人間は誠実には生きられない。私は自分の「心」に信頼をおけない。先生のように、いつ友を裏切ることになるか、戦きながら生きてきたのである。サラダ記念日俵萬智3年前頚椎の病気の検査で10日ほど入院していた時、おもしろい本が出たと、友人が出版されたばかりの本を差し入れてくれた?!弗单楗烙浤钊铡工扦ⅳ?。父が俳人だったので、僕は幼稚園のころ俳句を作ったりして遊んでいた?!溉f葉」や「古今」にも親しんで育った。外國で日本の家庭に招待されると、冗談半分に和歌めいたものを殘してきたりする。だが、近代、現(xiàn)代の和歌はやたらに濕っぽく、年寄りじみているので、好きになれなかった。検査のための注射の副作用を、俵萬智さんの才能が和らげてくれた。「七月六日」に屆くよう、サラダサーバーを著者にプレゼントした。こんなミーハーじみたことをしたのは初めてである。いつもは好きになった本を何冊も買って、友人たちに配る癖があるが、なぜかこの本だけは獨占したかった。しかし恐れていたことが起こり、「サラダ記念日」は超ベストセラーになってしまった。満開だ。すごい。王さんにぜひ見てもらいたいって、美穂からもメールが來てね。そうだったんですか。北京の桜はまだだろうな。ここがいいね。そうね。あなた、シート広げて。手伝いますよ……はい、よいしょっと。どうもありがとう。北京でもお花見ってするの?うちの大學のそばの公園が名所なんですよ。ひっとして京華大學?私京華に留學してたんですよ。本當に?じゃあ、先輩ですね!これでいいですか。オーケー。お弁當、お弁當。まったく、お父さんったら、「花より団子」なんだから。こら、潤、危ないからやめなさい。この子にも將來京華大に行ってもらいたいんですけど、5年生にもなってこれでしょう。頭が痛いわ。潤ちゃん、いらっしゃい。いただきます。どうぞ、どうぞ。ジャスミン茶を持ってきたんですが、いかがですか。いい香り。じゃ、皆でいただきましょう。この卵焼き、甘くておいしいよ。日本の卵焼きって甘いんですか。そうだわ、王さん、潤の中國語の先生になってやってもらえないかしら。僕が潤ちゃんの先生?まさか。そうか。王さんがいたじゃないか。実は部下が7月から北京に赴任するんだけど、こちらもなんとか教えてやってくれないか。頼むよ。そんな。お父さんったら!やっぱり、春の桜って本當にいいもんだなあ。信哉君も一緒だとよかったけど、受験勉強じゃしかたないですね。それがね、まだ部活に夢中で勉強どころじゃないって感じなのよ。もうちょっと真剣になってくれないとねえ。このままじゃ「サクラチル」だよ。あなた、縁起でもない。でも、信哉ったら、せっかく年號の覚え方教えてやっても、ぜんぜん覚えようともしてくれないの。例の「鳴くよ、うぐいす」かい。焦ることはないさ。信哉君も大変なんですね。さっきの話に戻っちゃうけど、せめて會話だけでも慣らしておきたいの。お時間のある時、潤の中國語の話し相手をしてもらえないかしら。先輩のお願いだし、それなら喜んでさせていただきます。よかった!じゃ、ちょっと急だけど、早速、來週あたりからお願いできるかしら。後半ならたぶん大丈夫だと思いますが。じゃ、王さん、金曜日にしようか。潤。王さんにも都合があるのよ。あいにく、スケジュール帳、うちに置いてきちゃってて。確認してからお電話させていただいてもいいですか。よろしくお願いします。ところで、さっきおっしゃってた「うぐいすがなく」って何ですか。それはね。暗記のための語呂合わせでね。木村さん、前の子どもにゲームで教える方法について発表してくれたよね。その話、時間がある時、もうちょっと教えてくれない?いいよ。年少者教育のことなら任せといて。ありがとう。じゃ、明日の吉田先生の授業(yè)のあとということで。オッケー。じゃ、また明日。よろしく!スポーツの語源はdisportで、運び去るということから、日常生活を離れて気晴らしをする、遊ぶことであり、科學や科學技術とは縁の遠いものであった。今でも、科學技術に囲まれ、様々なストレスに曝されている日常から解き放たれて、心身をリフレッシュすることにスポーツが役立つという點では、この意味が生きているといえるだろう。しかし、常に新しいことに挑戦することで大脳を発達させ、知恵と文化をより高度なものに発展させてきた人類は、スポーツも単なる気晴らしの遊びとしてだけでなく、身體的な能力の限界への挑戦の場として位置づけて、競技の記録やパフォーマンスを向上させ続けてきた。オリンピック大會や世界選手権を頂點とする「競技スポーツ」がそれである。その一方で、もう1つのスポーツの在り方として、近年、sportsforallという取り組みが世界的に展開されている。競技スポーツばかりでなく、ジョギングやウォーキングなどの競技性のない身體運動もスポーツという言葉で括られて、健康や生きがいのために行うスポーツとして、「生涯スポーツ」とか「健康スポーツ」とも呼ばれている。なぜforallかというと、科學技術の急速な進展による機械文明にどっぷりと浸かっている現(xiàn)代人には、身體運動の機會が極端に少なくなって、単に體力が低下しているだけでなく、飽食によるエネルギー出納のプラスも加わり、成人病などの健康障害が増加しているという大きな社會問題が起きていて、それを解決する唯一の手段がスポーツだからである。ところでスポーツとは無縁だった科學が、スポーツと結び付き出したのはここ半世紀ぐらいのことである。オリンピックなどでの國際大會が國威発揚の絶好の場と認識されたことと、身體や運動に関する科學的知見が蓄積されてきて、経験に頼ってきたトレーニングに科學的な分析が加えられるようになったこいとから、當時のソ連、東獨などの東歐圏が先行し、それを西歐諸國が追うという形で発展してきた。はじめは経験を重視するスポーツの現(xiàn)場と、まだ十分な蓄積と持っていなかった科學との間には、お互いの理解不足もあってギャップがみられたが、その後の科學の進展、知識の集積、そして特に測定技術、機器の急速な進歩がこのギャップを急速に埋めつつあり、今では科學のサポートなしには世界の頂點では戦えないというのは常識となっている。それも競技者の競技力発揮に関わる心技體の分析からの支援にとどまらず、打具、シューズ、ウェア、トレーニング機器などの用具、競技場の施設、記録の自動測定や結果の速報などの競技會運営といった様々なところに、最先端の科學技術が広く活用されている。これらの競技スポーツで蓄えられた科學的知見や技術は、程度の差こそあれ基本的には同じようにスポーツをする生涯スポーツにも広く応用されている。また健康という視點からのスポーツにとってもこの視點は同様に重要であり、相互に働きかけあっているといってよい。最後に、科學は人類に大きな恩恵をもらたしてくれたが、同時に常に悪魔性が存在していることも忘れてはならないだろう。スポーツでも、ドーピングがそうであり、遺伝子操作などの最新技術も懸念されるものである。スポーツの実踐にフェアプレーが求まられるように、スポーツに関わる科學者にもフェアプレーが強く要求されているのである。スポーツも科學も人間の幸福のためにあることを忘れてはならない。あれ、この辺に交番があったんだけど。迷っちゃったかな。ちょっと、八百屋のおじさんに聞いてくる。すみません。ごめんください、マイクです。マイクさん。どうぞ、どうぞ。お邪魔します。ここ、すぐ分かりました?実はちょっと迷って、八百屋さんで教えてもらいました。そうでしたか。家內のサチ子です。はじめまして。こんにちは。どうぞ。皆さんのことは主人から聞いてます。サチ子さん。お母さん、一郎さんの學生さんたちが見えました。ようこそ。どうぞどうぞ、お入りになって。これ、つまらないものですが。これはどうも。君たち、そんな気を遣わなくていいのに。お土産をいただいたよ??证烊毪辘蓼埂¥ⅳ胜?、皆さんに座っていただいて。おばあちゃん、遊ぼうよ。健太、マイクさんでしょ、こんにちは、お兄さんやお姉さんたちにもご挨拶して。マイクさん、こんにちは。こんにちは。こんにちは。ケンちゃん、おばあちゃんと一緒に向こうで遊ぼうか。バイバイ。どうぞ。ごゆっくり。サチ子さんはどれがいいですか。皆さんからまずどうぞ。お父さん、ゲーム機、動かなくなっちゃった。どれどれ、あれ、ほんとだ。あとで見て上げるから、おばあちゃんのところに行って遊んどいで。息子さん、おいくつですか。いくつだっけ?今年で7歳になるんだよね。僕、お名前は?清水健太。一郎、小林先生からお電話ですよ。ちょっと失禮。ケンちゃん、そのゲーム機、好き?面白い?バージョンが古いんだ。お兄さん、ゲーム機は?僕も前は大好きだったよ。ここが動かないんだね。健太、お母さんがおやつだって。ほら、早く行っといで。はい。マイクさん、またあとでね。注意して聞いてると、日本語の呼び方って意外に難しいのね。この間、前を歩いてる40歳ぐらいの女の人が切符を落としたから、おばさん、落とししましたよって言ったら睨まれちゃった。子どもを連れていたの?それじゃ「おばさん」はないよ、かわいそうに。韓國ではどう?40代以上から「アジュマ」って呼んでもいいんじゃないかな?!赶壬工盲婆预摔馐工Δ袱悚胜?、あれ、最初は違和感があった。お店で「おねえさん」って呼んで、笑われたこともあるし。僕も。そう呼ぶかわりに普通は「すみません」って言うんだよね。あれ、そういえば、先生の奧さんって何て呼べばいいの?奧様?あら、どう呼べばいいんだろう。先生、この間はどうもありがとうございました。こちらこそ。妻も母も楽しかったって、とても喜んでましたよ。ケンちゃんのゲーム機、直りましたか。なんとかね。思っていたより複雑なんで、まいったよ。健太君は、先生のお母様が大好きなんですね。うん、あの子はおばあちゃん子でね。先生のお宅で奧さんを呼ぶ時、何と言ったらいいんですか。そういえば、どれも使えないみたいだな。家庭生活の変容と子どもの社會力の低下日本では、子どもの不登校や引き篭もりといった非社會的行動が問題視されるようになって久しい。子どもの非社會的行動を「社會力の低下」という概念を作って論じている教育社會學者がいる。筑波大學の門脇厚司教授である。教授はその論文で、子どもの社會力の低下をもたらした要因が家庭生活の変容にあると考え、分析を試みている。以下、その概要を紹介する。論文の中で教授は、1.家族形態(tài)や住民形態(tài)や生活様式の変化と2.家族機能の外部化という観點から家庭生活の変容を捉え、それが子どもの社會力低下につながっていると指摘している。まず、1.の家族形態(tài)や住民形態(tài)、生活様式の変化として、世帯當たり人數(shù)の減少と、マイホーム化とマイルーム化の進行があると述べている。かつて平均5人だった1世帯當たりの人數(shù)は、現(xiàn)在では夫婦と子ども1人というのが一般的となった。郊外のマイホームから都心の會社に勤める父親が家を空ける時間が長くなり、子どもは自分専用の勉強部屋が與えられ、一日中そこに篭ることが多くなった。このようにして、「自分の家での家族との交わりすら十分でなくなった」とする。さらに、家族同士の交流だけでなく、「マイホームを求めて地方から都市部に集まってきた人たちの集合地となった地域では、近所付き合いはほとんどなく、地域ぐるみの集まりや活動もない。地域はかつてあったお隣同士の付き合いや助け合いといったコミュニティ機能を失った」と、地域の交流の希薄化を指摘している。そして、「大人との日常的な交流がなくなった子どもたちは、かくして、自分の家での家族との交わりすら十分ではなくなったのである。社會力のおおもとである他者への関心と愛著と信頼感を培ううえで絶対に欠かせに條件である他者との相互行為の絶対量が少なくなったこと、このことが子どもたちの社會力を衰弱させることになったのであり、社會力の増加によって促される脳の発達もまたこうして阻害されることになった」という分析が続く。次に2.の家族機能の外部化であるが、教授は家族機能として「1食べ物と休息の場を提供することで、家族員の生命と生活を保障し(生活保障)、2家族員を慰安し心を和ませ、精神的な安定と心理的な安定を與え、(慰安、精神的安定)、3性的な欲求を満たし(性欲求充足)、4次の時代を擔う子孫を産み(生殖、家系保存)、5産んだ子どもを養(yǎng)育し社會の一員として育てる(教育、社會化)、という5つ」を挙げている。このうちの5の家族機能の外部化は、経済の高度成長とともに始まった受験競爭の広範化と激化により、子どもを學校のみならず塾や進學塾に通わせることが當たり前となったことや、母親の社會進出に伴い、子どもを育て社會化する機能を外部に任せるようになったこと、家庭でも親が子どもに本を読んでやったり昔話を聞かせたりすることすら減ってしまい、親子の觸れ合いが少なくなったことなどによると教授は述べている。そして「家族機能の外部化というこのような家族の変質が、そこで生まれ、そこで育つ子どもたちの人間形成に影響を及ぼさないはずはない。家族同士の情緒的つながりが薄くなり、家族同士が共同してことを為すことがなくなり、家族同士のもちつもたれつの関係が希薄になってきたことは、そのまま、子どもたちの他者への関心と愛著と信頼感を希薄にすることになったといってよい。要するに、変質した家族では、子どもたちの社會力のおおもとが形成されなくなったということである?!工戎刚工搿=淌冥稀干鐣Α工趣先摔热摔膜胜盲粕鐣蜃鳏盲皮いΔ扦ⅳ毪仁訾伽皮い?。その低下の原因であるとともに、解決へのキーワードが「家庭」であり「家族」であることの意味を、私たちは今一度考えてみる必要があるのではないだろうか。ちょっと相談なんだけど。僕の叔父が仲間と西安から敦煌を旅行することになってね。シルクロードは人気のようだね。テレビでもよく取り上げてるし。叔父は少し中國語を勉強してるんだけど、ぜひ旅行の前に中國の學生さんにいろいろ解説してほしいって言うんだ。いろいろね。そんなこと、私にはできっこないよ。お前なら友達がいるじゃないか、頼んだぞって言われちゃってさ。叔父はものすごく強引なんだ。僕、苦手でね。斷らなくて、つい。ついって、まさかもう引き受けちゃったの?ごめん。中國に行くのは全員初めてだし、中國人と話したこともないから不安でたまらないって。すみません、申し訳ない。もう、三好さんたら、しょうがないなあ…で、いつ?ありがとう!土日ならいつまでも合わせるって。來週の土曜か日曜ね。僕も行かざるを得ないようだなあ。日曜ならバイトもないし。助かった!叔父さん、遅くなってすみません。突然友達に來られちゃって。叔父です。叔父さん、劉さんと王さんです。學の叔父の三好です。お休みの日に恐縮ですが、今日はどうぞよろしくお願いいたします。こちらこそよろしくお願いします。學、だらしがないぞ、遅刻してお待たせするなんて。はい。劉さん、王さん、こめんなさい。友達が來たから遅れたなんて言い訳にならないぞ。すみませんね、學はいつもこうやって皆さんにご迷惑ばかり掛けているんでしょう。はい。いいえ。以後、気を付けます。學、資料は?コピーしてこようか。資料?特に、ないよね。最初にお2人に30分程度のお話をお願いするって言っただろう?お話?!ちゃんとこっちの言ったとおりにお伝えしておかなかったのか。そうだったっけ。そういえば。學さんに司會をしていただいて、質問會みたいに進めたらどうでしょう。質問にそってお話しするほうがこちらもありがたいですし。僕も一方的にお話しするというのは自信がありませんし。そうですか。まったくこれのせいで、いろいろ申し訳ありません。時間になりますので、そろそろお願いします。學、會場は3階の大會議室だから、ご案內して。大會議室?今日は旅行に行かない人も含め、50人ぐらい集まっているんだ。50人?どうしよう!中國は漢字の國だから、漢字を書けばだいたい通じると聞いたことがあるんですけど。大丈夫ですよね。それはどうでしょうか。例えば「手紙」と書いて見せたらトイレットペーパーがほしいと思われるかもしれませんが。それは大変。ほかにも同じような言葉はありますか。中日で意味の異なる漢語はたくさんあるはずですが。そうだ「告訴」と書いてあったらこれはただ「知らせる」という意味です。それから、「娘」は母親の意味になりますね。そうだったんですか。やっぱり勉強しておかないとだめだ。すみません、「シルクロード」って言って通じますか。それは無理でしょうね。西安、敦煌も発音は中國式でないと。そうか、そうですよね。ガイドブックにピンインが付いてない。西安というのは唐の長安と同じ場所なのですか?,F(xiàn)在の西安とは少し場所的に異なると考えられているようです。遣唐使の阿倍仲麻呂は長安で李白と會ったことがあるでしょうか。あるかもしれませんが、史実といえるだけの証拠はなさそうです。今日は本當にありがとう。出席者に喜んでもらえたのも、劉さんと王さんのおかげだよ。では、これより打ち上げ會場にご案內します。やったー!年功制から「成果主義」導入へ日本企業(yè)が成果主義を導入しはじめたのは1990年代前半からだった。バブル崩壊によって痛手を受けた各社は、2つの意味で変革を迫られていた。1つは「年功序列?終身雇用」という日本型経営への自信が打ち砕かれ、これに代わる新たなシステムが模索されていたこと。もう1つはもっと単純に、業(yè)績が低迷するなかで、人件費の圧縮によるコスト削減が至上命題だったということだ。成果主義なら、この2つの用件を満たすことがある。頑張った者に手厚い給與やポストで報いる歐米型の経営手法は、極めて合理的かつ効率的であり、社員のモチベーションを引き出すことができる。組織がその集合體になれば、必然的に生産性が向上する。しかも定期昇給のコストは減るし、頑張らなかった者の給與を引き下げることもできるから、トータルで見れば人件費が圧縮につながる。その結果、”お荷物”の社員が絶望して自主的に會社を去ってくれれば、なお都合がよい。つまり、時代遅れになった日本型経営を捨て、いちはやく成果主義による賃金制度を導入することが、社內を活性化させる鍵になると考えられたのである。実際、同制度は瞬く間に浸透した。厚生労働省の「就労條件総合調査」によれば、2001年時點で「業(yè)績評価制度があり、それを給與に反映させている企業(yè)」は全企業(yè)の45.7%に達している。とくに社員1000人以上の大企業(yè)では78.2%、300から999人の中堅企業(yè)でも71.0%だ。産業(yè)界をリードする企業(yè)ほど、積極的に導入している姿がうかがえよう。だがその結果、企業(yè)は成長戦略を描けたかといえば、そのようなことはなかった。「失われた10年」という言葉に象徴される通り、長期低迷を余儀なくされた。景気そのものが低迷していたという事情はあるが、成果主義の導入がそれに拍車をかけた感は否めない。先の「就労條件総合調査」(01年)では、業(yè)績評価制度が「うまくいっている」と答えた企業(yè)はわずか10.6%にすぎない。その問題點として「従業(yè)員の評価に対する納得が得られない」(32.9%)、「評価によって勤労意欲の低下を招く」(26.5%)、「従業(yè)員間の賃金の格差が拡大する」(25.5%)などが挙げられている(複數(shù)回答)。モチベーションを引き出すどころか、かえって現(xiàn)場を混亂させ、やる気を失わせ、足を引っ張る形になっていたわけだ。では今日、成果主義はどうなっているのか。07年の「就労條件総合調査」によると、「業(yè)績評価制度がある企業(yè)」は45.6%で01年調査時とほぼ変わらない。ただ社員1000人以上の大企業(yè)については82.5%まで増えている。このうち、「うまくいっている」としている企業(yè)が20%まで倍増。試行錯誤の末、ようやくシステムとして落ち著いてきたのかもしれない。ただし、「評価結果に対する本人の納得が得られない」(28.5%)、「評価によって勤労意欲の低下を招く」(22.9%)などの問題點は相変わらずだ。また「個人業(yè)績を重視するため、グループやチームの作業(yè)に支障が出る」(13.1%)という問題も起きている。さらに気になるのは、社員のメンタル面の危うさだ。社會経済生産性本部が06年に行った調査によると、過去3年間で「心の病」を抱える社員が「増加傾向にある」と回答した企業(yè)が6割を超えた。しかも年齢層別で見ると、圧倒的に多いのが働き盛りの30歳代だという。また、心の病で1か月以上休職している社員のいる企業(yè)は約75%に上る。社內コミュニケーションの不足や、責任と裁量のバランスの欠如が一因であると同本部は分析している。厚生労働省によると、精神障害関係の労災請求件數(shù)は年々大幅に増加しており、06年度は前年度より約25%増の819件。このうち自殺に至ったケースは176件に上っている。これらの結果は、成果主義の導入と無関係とはいえないだろう。社員に多大なストレスをもたしていることは間違いない。だが、いまさら後戻りはできない。こうした犠牲を減らすには、成果主義のさらなる改善が必要だろう。富士通での苦しい経験を経た前述の城繁幸氏は、「若年層を評価する中高年の管理職層の資質こそ重要」と説く。しかし、実際には「成果主義を導入した企業(yè)には世代間ギャップがある?!工戎刚贰⒁韵陇韦瑜Δ耸訾伽皮い??!溉裟陮婴夏旯π蛄惺来橐环降膜顺晒蛞螭丹?、競爭を課され、しかも支配する側のステイタスは永遠に得られない。會社という組織の中でこれ以上働き続けても、彼らは將來への希望が見出せないのだ」(『日本型「成果主義」の可能性』(東洋経済新報社))。中高年層の「既得権」を破壊し、意職改革を迫る――年功制に戻せないなら、若年層が報われる道はそれしかないのかもしれない。みなさん集まったようですね。じゃ、大山さん、始めてください。はい。お手元にレジュメと資料、ありますでしょうか。すみません、資料を1部いただけますか。これ、橋本さんのほうにまわしてもらえる?それでは、始めたいと思います。今日は、日本人のペット観の変化について調べた結果をご報告したいと思います。日本では「ペットブーム」ということがマスコミで報じられるようになって久しいですが、果たしてその実態(tài)はどうでしょうか。時代の流れとともに、日本人がペットを飼うという習慣に何か変化は見られるようになったでしょうか。もし、変化が見られるとしたら、その背景にはどんな要因があるのでしょうか。これらの點について調べることにより、現(xiàn)代の日本社會が抱える問題の一端を明らかにしたいと考え、このテーマを選びました。では、世論調査の統(tǒng)計を用いて、まず日本におけるペットの飼育の実態(tài)、そしてペット観について見ていって、最後にそれらの結果をもとに、私なりに考えてみたことをお話したいと思います。それでは、まず、ペットの飼育率についてですが、お配りした資料の図の1をご覧ください。私自身は実際に調べてみるまではあたかもペットが急増しているかのような印象を持っていていましたが、この世論調査の結果を見る限りでは、著しい増加現(xiàn)象が見られるわけではないようです。ただ、ほかの調査結果と合わせて考えると、たいへん緩やかではありますが、ペットを飼う人は80年代から現(xiàn)在にかけて増加傾向にあると言えそうです。では次に、ペットの種類の推移について見てみたいと思います。お手元の資料、図の2をご覧ください。これは、図1同様、內閣府による世論調査の結果でして、図1の問いでペットを「飼っている」と答えた人が飼育しているペットの種類を、複數(shù)回答で聞いた結果を示しています。この図から、犬が常にトップであり、その比率も24年間で約16ポイント上昇し62%に達していることが分かります。貓も常に20%臺を維持し続け、犬ほどではないものの、その比率は90年以降徐々に上昇しつつあると言えます。一方、鳥類と魚類は減少傾向にあります。特に鳥類のほうは86年の調査で貓に逆転され3位になったあともどんどん減る一方で、2003年には、とうとう7.7%にまで落ち込んでいます。要するに、鳥と魚は減り、犬やねこは増えているというわけです。この結果は日本人がペットに求めるものが変わってきたことを示唆しているのではないでしょうか。そこで、次にペット飼育に関する意識について調査した結果を見てみたいと思います。非常に限られたデータによる分析ではありますが、以上見てきたことから、日本においてペットを飼う人が増加している背景には、急速な少子化や核家族化が要因として働いていると考えられるのではないでしょうか。今後は、近年犬や貓のペットロボットが開発されるようになった背景などにも目を向けつつ、資料の収集、分析をさらに進めていきたいと思います。これで発表を終わります。何かご意見、ご質問があればお願いします。とても興味深いお話、ありがとうございました??紪摔韦趣长恧扦盲筏悚盲骏偿螗靴衰螗ⅴ衰蕙毪碎vして一點伺いたいんですが。はい。この言葉は70年代のアメリカで、動物と人を対等に見ようという考えのもとに使われるようになったということでしょうね。日本でも85年以降広がりつつあるとおっしゃいましたが、歐米における人と動物の関係と日本の場合とでは、宗教や文化的な背景の違いから同様には考えにくいのでは、という気がします。歐米で生まれたペット観が日本でも定著していくんでしょうか。うーん、そうですね。実はこの點については私も気になっていたんですが、まだ十分に調べていません。確か參考文獻に挙げ橫山1996に歐米と日本の動物観の違いについて觸れた箇所があったと思うので、それを読み直してほかの先行研究にもあたってみたいと思います。ありがとうございます。もう少し続けたいところですが、時間ですね。では、今日のゼミの中で出てきた問題點を含めさらに発展させて、前期のレポートに取り組んでください。じゃあ、今日はこれで終わりましょう。説得力のある文章を書くために大學生になったからには、大學生にふさわしいレポートや論文を書く力を身につけたいものである。レポートや論文は、説得力があることが必要である。では、説得力のある文章とはどのようなものだろうか。まず、言うまでもなく內容の質が重要である。主張そのものが明晰で、論理的に構成されているのはもとより、根拠や資料が信頼に値することが、説得力のある文章の、第一條件である。次に、こうした質が的確に言語化されている必要がある。たとえ主張と論理性、そして根拠が妥當なものであっても、誤読を招く表現(xiàn)が目立ったり、誤字脫字だらけだったりすれば、読み手に主張が正確に伝わらない。さらに、読み手の理解を得るために、読みやすさを備えていることが肝要である。ただ強く主張すればよいというものではないし、かといって遠慮がちに述べれば効果があるというものでもない。このように、説得力がある文章とは內容も言葉も読み手の理解と信頼が得られる文章のことにほかならない。従って、會話のように直接、顔を合わせるわけではないが、読み手とのコミュニケーションを意識することが肝要である。では、具體的にどのような點に注意すればよいのか、読み手とのコミュニケーションという點に注目しながら、日本語の場合に限って考えてみよう。1)必要以上の一方的な斷定を避ける日本語は斷定を避け、「だろう?ではないか?思われる?考えられる」などの曖昧な表現(xiàn)を好むと言われる。これは曖昧というより、実は読み手にも同様の推論を促し、確認し合い、共感を得る技法だと考える方が適切である。言語によっては、斷定的に述べることが責任を持つ態(tài)度だと捉えられ、好感度が高い場合があろう。しかし日本語の場合は、明らかに読み手の未知の情報を伝える場合を除けば、斷定的な語り方は、読み手に一方的に情報を確かなものとして伝える態(tài)度であり、読み手と情報の共有を目指さないことも含意しやすい。その結果、語り手の意図に反し、聞き手の反発を招く可能性が生じる。例1このような意見には賛成しない。例1’このような意見には賛成しかねるのではなかろうか。例1に比べると、例1’は語り手自身の「賛成できない」という意見を強く主張しない代わりに、読み手にも推論を促し、共感を誘う表現(xiàn)となっている。2)むやみに話し言葉を挿入せず、文體を統(tǒng)一する學生によっては、文章の一部に丁寧體を挿入する傾向がみられる。これは親しさを加えるという意図によるだけでなく、無意識に行っている場合も少なくない。こうした文章は日本語の母語話者から見ると、丁寧體の箇所に來たとたん、語り手が突然子どもになって、語り始めたような、奇妙な印象を受ける。例2魯迅は當時の社會をありのままに描いた。この作品を初めて読んだ時、私はちょっと信じられなかったです。しかし読み続けていくうちに、魯迅の願いが少しずつ見えてきたのである。この一言で文章全體が幼稚になり、せっかくの文章の真剣さが削がれる。3)重々しい文言や冗漫な説明を避ける。中級後半になると、漢文調の荘重な文體で書かれているレポートが増える傾向が見られる。中には、內容に比して文體が重々しいあまり、違和感どころか滑稽な印象すら與える場合がある。例えば、例3これより魯迅によって物された『故郷』という世界的に有名な作品を取り上げ、その主題に対する考察を深化させていこうではないか。上の例の「これより」「物された」「その主題に対する考察」「深化させて」などは、大學生のレポートという點からみてふさわしくない。また、この場合の「いこうではないか」は演説の口調となっている。また、読み手に周知のこと、すなわち「魯迅によってものされた『故郷』という世界的に有名な作品」などの過剰な説明を、わざわざ加えるには及ばない。重要なのは課題と結論、そこに至る論理性であり、必要十分以外の情報は多すぎないに越したことはない。上の文は、次のように修正すればより適切である。例3’以下、魯迅の『故郷』の主題とは何か、考察を進めたい。4)適切に接続語を用いて、読み手に論理の流れを示す學生の中には、段落を改めたら接続語は不要になると考える者が、少なくない。日本語の接続語は、読み手の推論や連想を視野に入れながら、次はどの方向に論を進めるか読み手に示し、誘導するものであって、論理関係を示すものに限らない。日本語話者は、たとえ改行しても、それだけでは読み手への方向指示器とはならないと考えるわけである。例えば、例4~~以上より、國民は將來に向けて、環(huán)境破壊とエネルギー確保の相関性に気づくべきである。多くの學生はこの問題の重要性に、十分に気づいていない。今後は學生を中心に、若者全體の意識を高める必要がある。上の2段落目の文頭を例4’しかしながら、多くの學生はこの問題の重要性に、十分に気づいていないようである。今後は學生を中心に、若者全體の意識を高めていく必要があろう。と接続語で始めると、文章の逆接関係が明確となる。さらに「ようだ」により前提となる事情が読み手と共有されやすくなり、また「取り組んでいく」と行動を実踐に向けさせ、「あろう」と読み手の推論を求めることで、主張がより補強される。ただし、接続語の使い方を誤ると、次のように混亂を招く場合がある。例5~以上、日本文學についてまとめてみた。さて、私は中古の文學について、次のような考えをもっている。中古の物語として有名なのは、『源氏物語』ではないかと思う。上のように「さて」で段落が改まると、日本語話者はいよいよ本論に入ったと期待する。しかし、「中古の物語として有名なのは『源氏物語』だ」というあまりに當然の記述が続くため、肩すかしをくらったように感じる。これは、「さて」や「ところで」が単に話題の転換を表すだけでなく、本題に入る意味も含むことによる。このように接続語による方向表示の適切さも、説得力を左右するわけである。5)剽竊は絶対に行わないレポートや論文の準備に際して、私たちは必ず參考文獻に當たる。その時に、探していた答えや、いい考えが見つかり、その通りだと嬉しくなることもある。しかし、だからといって、その他人の言葉を無斷で自分の文章に引用することは、絶対に許されないことである。引用箇所の出典を明記することが、書き手の誠実さの証明であるとともに、今や全世界共通の守るべきルールである。教師は學生のレポートに無斷の切り貼り――通稱「コピペ」――があるのを見るにつけ、情けない気持ちになる。教師は學生の「コピペ」には、即座に気づくものなのである。ある大學教員の話によると、「コピペ」が分かった段階で、そのレポートには合格を與えないという。出典を示さない引用は、書き手が自分の信頼を失う、恥ずべき行為であることを、肝に銘じるおくべきである。例6山田(2010)によると、現(xiàn)在ベトナム人留學生の數(shù)が増加しているということである。例7この點については、「今後、小學校では英語よりも異文化教育が必要だ(鈴木2011)」という指摘があり、さらに議論を深める必要があろう。おわりに…書いたものは、一晩おいて次の日、読み返すことが大事だ。夜中まで必死に書き続け、きちんと推敲したかしないかのうちに、提出してしまうことは、非常に危険である。後悔のないよう、他人の文章を読むつもりで、冷靜に推敲すべきである。文はひととなりである。読み手のためだけでなく、書き手自身のためにも、最後まで心を込めて、説得力のある文章を書いてほしいと願う次第である。帰國準備いらっしゃいませ。ノートパソコンをお探しですか。もうすぐ北京に帰るので、向こうでも使えるのがほしいんです。それでしたら、ご希望をお申し付けいただければアドバイスさせていただきますが。できればA4で、持ち運びができて、畫面が鮮やかで、音質がいいのがいいんですけど、そんなのあるかなあ。ござうますよ。そうですね。こちらはいかがでしょうか。これは僕も考えてたんだ。これ、いくらになりますか。ずばり、これでいかがでしょう。結構するもんですね。これじゃあ、手が出ないなあ。それでは、ご予算に応じてほかのメーカーさんのものもご紹介いたしますので、まずはご予算をお聞かせ願えますか。じゃあ、これぐらいで。かしこまりました。それでは、こちらはいかがでしょう。こちらのメーカーさんは軽量なのと使いやすいので、老若男女を問わず人気です。このパソコン、カメラも內臓されてるよ。ほんとだ。この値段にしてはスピーカーの音質もいいんじゃない。こちらは當?shù)辘文坑裆唐筏扦工韦?、お買い得かと存じますよ。わりと軽いし、おまけに値段も手ごろだし、掘り出し物かも。決めちゃおうかな…よし、決めた!じゃあ、これをお願いします。ありがとうございます。それでは在庫を見てまいります。申し訳ございません。こちら、在庫を切らしておりまして。じゃあ、どれぐらい待てばいいんですか。それが、メーカーさんに問い合わせてみたんですが、あいにく、もう生産中止だということでして。ということは、いくら待っても手に入らないってことですね。大変申し訳ございません。1つ古いモデルでよろしければ在庫もございますし、大幅にお値引きできるんですが。それじゃ、せっかくここまで來た意味がないじゃない。じゃあ、最初に見せてもらったほうは在庫があるんですか。はい、あちらはございます。じゃあ、あちらをこの値段にしてもらえたら、話は早いですね。そうおっしゃられても。どこのメーカーでも売れればいいんじゃないですか。確かにそうなんですが、メーカー希望小売価格が違いますので。じゃあ、支払いは現(xiàn)金にします。それならどうですか。うーん。そうですねえ。店長に相談してみませんと。王さん、時間がもったいないよ。無理ならさっさとほかに行こう。分かりました。お客様には負けました。今回だけ大サービスです。本當ですか!やったー!王さん、よかったわね。ご帰國後、何かごさいましたら私どもの北京支社のほうでも承っておりますので、ご利用くださいませ。それではお會計へどうぞ。疲れた。でも、おかげさまで希望通りのがゲットできたよ。よかったね。でも、なんでこんなに高性能のパソコンを買ったの?よくぞ聞いてくれました。実は僕、離れ離れになってもみんなそれぞれの近況が伝え合えるサイトを作ろうと思ってるんだ。そっか。でも、それって、難しくない?専門知識も要るだろうし。たぶんね。でもこれからの時代、情報発信はマスじゃなくて個人、コミュニケーションの方向は単方向じゃくて雙方向が主流になると思うんだ。僕、それを自分でやってみたいんだよ。でも、それにはかなりお金もかかるじゃないかなあ。何事もやってみないことには分からないじゃない。物は試しで、とにかくトライしてみるよ。面白そうじゃない。できたら僕のサイト相互リンクしようよ。オッケー。よーし、頑張っていいサイトを作るぞ。キャー、王さん、素敵!キャー、王さん、素敵!インターネットとコミュニケーションインターネットの活用あなたは、1日に何時間ぐらいコンピューターを使っているだとうか。また、コンピューターを使う目的は何であろうか。電子メールやチャット、様々な情報が検索できるYahooやGoogleといったウェブサイトの閲覧、あるいは、文章を書くためのワープロ機能の利用だろうか。コンピューターの持つ機能の中で私たちの生活にもっとも大きな影響を與えたものは、インターネットだと言っても過言ではない。インターネットとは、世界中のコンピューター間に構築された通信ネットワークのことである。この通信ネットワークを通して、私たちは世界中の人々と電子メールやチャットで交流できるようになり、様々な情報が簡単に手に入れられるようになった。WWWという便利なアプリケーションが登場し、インターネットを通じて、ウェブサイトとよばれるコンピューター畫面に文字だけでなく映像や音聲を伴った情報が提供されるようになった。インターネットというと、すぐに情報検索が思い浮かぶのは、WWWの普及によって數(shù)多くのウェブサイトが作られ、キーワードを入力して検索ボタンを押すや、必要な情報が瞬時に、しかもたやすく得られるようになったためである。今やすっかり定著し、便利この上ないインターネットではあるが、問題がないわけではない。最近、大學生のレポートにインターネットを通して得られる情報をそのまま文書化したものが多く見られるようになったことが、その一例である。大學や研究機関などのホームページでは數(shù)多くの論文を公開しており、またブログと呼ばれる個人の記録でも體験記や論評などを公開していて、その中にはレポートなどに取り入れたくなる情報も少なくない。本來なら、引用であることも斷らずに他人の書いたものそのまま借用すれば、剽竊にあたることは言うに及ばず、著作者の知的所有権の侵害として罪を問われるものである。問題はウェブサイトで公開されている情報の場合、情報提供者個人の手を離れ、私用に提供されているように見えることにある。そのため、罪の意識もなく自分のレポートに取り込むようなことが起きるのだろう。また、公開されている情報を無批判に、信憑性を疑うことなく採用したがために、著しく偏見を伴う情報をそのままレポートに書いてしまうこともないとは限らない。いずれにしても、コンピューターの畫面というインターフェイスが情報提供者の顔を見えなくしており、簡単に消費され、そして常に代替可能な情報であるかのような錯覚を伝えることにも原因がある。インターネットは情報検索ツールであり、インターネットを通して無數(shù)のデータベースにアクセスできると、誤解している向きがあるようだ。しかし、インターネットは、コンピューターを人と人のコミュニケーションの道具にしようと考えた人たちによって開発されたもの、すなわち、本來は人と人とをつなげるためのものなのである。日本でインターネットの構築に貢獻した古瀬幸弘と広瀬克哉はその著書、『インターネットが変える世界』の中で、次のように言っている。「コミュニケーションはコミュニティの成立基盤である。これまでは、それが物理的な環(huán)境に制約されていた。學校や會社、地域のコミュニティは存在していたが、それ以外のコミュニティに參加することはひじょうに難しい。そういった物理的、時間的な壁をいきなり取り払うのがインターネットである。組織の壁もなければ、國境もない。古瀬たちの言うコミュニティは、「問いかけに対して知っている人が答え、皆で知識を共有するコミュニティ」である。そして、「何かを知りたいと思ったら、問いかけるのが最初の一歩である。そこからコミュニケーションが始まる。つまり、自らも発信してこそ、インターネットが生きるのだ?!工仁訾伽?。コンピューターをあくまでも人と人とのコミュニケーションの道具として用いることを提唱しているのである。別れと再會

それでは、今年度東西大學に交換留學生として來日し、1年間の留學生活を終えられた留學生の皆さんにスピーチをお願いしたいと存じます。それでは、向かって一番左の王宇翔さんから。はい。ただ今ご紹介いただきました、王宇翔です。本日は、私たちのために、このように盛大な歓送パーティーを開いてくださいまして、ありがとうございました。まずはこのスピーチの場をお借りしまして、皆様に厚く御禮申し上げます。私が東西大學に交換留學生として參りましたのは、去年の8月のことでした。初めてこのキャンパスに足を踏み入れた時の感動は、今でも鮮明に覚えています。早いもので、あれから1年がたってしまいました。実は、今だから申し上げますが、日本に來る前、私は、今まで勉強してきた日本語は通じるのか、友だちはできるのか、心配でたまりませんでした。でも、私が到著する前から、皆様が萬全のサポート體制で待っていてくださったおかげで、すぐにそんな不安は吹き飛びました。これには今でも心から感謝しています。本當にありがとうございました。大學で授業(yè)が始まると、先生方は、ある時は厳しく、ある時は優(yōu)しくてご指導くださいました。専門のゼミともなると、日本人學生と同じスピードで付いていくのは留學生にとってはかなりハードでしたが、先生方は常に私たちの理解具合を見ながら進めてくださいました。先生方のご指導なくしては、私の學生生活は成り立たなかったでしょう。先生方、どうもありがとうございました。次に、私の留學生活を支えてくれた大切な友だちにもお禮を述べたいと思います。まずは同じゼミの日本人學生の皆さんに。皆さんは、同じ學問に興味を持つクラスメートでしたが、同時に、私が今まで知らなかった新しい言葉をたくさん教えてくれる先生でもありました。授業(yè)では、難しい言葉を易しく言い直してくれたり、間違えた日本語を直してくれたりしていつも私を助けてくれました。また授業(yè)のあとの、お茶を飲みながらのおしゃべりも私にとっては貴重な勉強の時間でした。この1年間をなんとか楽しく乗り切ることができたのは皆さんのおかげです。ありがとうございました。それから、この大學には色々な國の留學生が來て學んでいますが、留學生の皆にも心から感謝を申し上げます。皆さんとはよく日本の文化や習慣に関する疑問や不可解なことについておしゃべりしましたが、それを通じて、自分にとっては當たり前のことがほかの人にとっては驚きの対象になることが分かり、異文化を見る目が養(yǎng)われました。それに、日本人と話している時はなかなか言いたいことが伝えられず、もどかしい思いをすることもあったのですが、留學生同士だと不思議といつもスムーズに通じるので、ストレス解消になってありがたかったです。皆さんと話していると心が和みました。いつも溫かい手を差し伸べてくれた皆さん、本當にどうもありがとうございました。また、汗まにれになってともに苦しい稽古に耐えた空手部の仲間たちとは、よくお酒を飲みながら一晩中語り合ったんですが、話していて、若者が抱く興味や悩みは國籍や文化にかかわらず同じだということが分かりました。毎日の稽古は厳しいものでしたが、日本に來て空手を始めたことで、心や體を鍛え、日本文化に対する理解も深めることができたように思います。1年間はあっという間でしたが、今は、すべてが私にとってかけがえのない思い出です。皆さん、本當にどうもありがとうございました。帰國後は、少しでも皆様から受けたご恩がお返しできるよう、微力ではありますが、中日の架け橋となるべく、頑張っていきたいと考えております。簡単ではございますが、これでお別れのご挨拶とさせていただきます。今度は北京でお會いできるのを楽しみにしておりますので、北京にお越しの節(jié)はぜひご連絡ください。楽しみにお待ちしております。それではどうもありがとうございました。王さん、どうもありがとうございま

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